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草川の思い出話  第4話ロ-ドレ-サブ-ムの終焉とマウンテンバイクの勃興

ロードレーサーが一部の人々の間で人気が出て、当店でもかなりの数が売れるようになりました。

当時は今とは違い、完成車メーカーというのは無く、フレームメーカーからフレームを仕入れ、当店で組み立てるいわゆるセミオーダーが中心でした。

フレームメーカーも少なく、パーツメーカーもシマノ、サンツァ-しかなく『カンパは少ししか入ってません』生産も少量なので、販売の苦労よりもフレーム、パ-ツの確保に躍起になった時期もありました。

ロ-ドレ-サ-ブームと言ってもあくまで一過性でその終焉はすぐにやってきました。原因は当時のタイヤはチューブラーで、修理のできる店が少なく、パンクをして困った人が続出し、また道路状況、乗り手の未熟さで怖い目に逢ったり、事故をしたりして辞めていく人が多くなり、買われた自転車の多くは倉庫に眠ったままになったようです。

当店も販売するのは一般車が中心でスポ-ツ車は少しという状態が続きましたが、クラブパズルは会長の星長君を中心にメンバ-がどんどん増えていきました。

ある年、クラブ員の広戸君がランドナ-『旅行車』で富士山の頂上から5合目までの下りを20数回こけながら走破しました。ちょうどその数年前にアメリカで、トムリッチ-、ゲイリ-フィッシャ-らがビ-チクルザ-を改良したバイクでカリフォルニアの山を走り回り、やがてマウンテンバイクが考案され、瞬く間に若者たちに広まりました。

アメリカから日本の東洋フレ-ム、アラヤ工業などに制作依頼が舞い込んできたときでした。私も東洋フレ-ムの石垣社長に教えて頂き、1台分けて頂きました。日本で一番最初のマウンテンバイクだと思います。

その後アラヤ工業からマディフォックスという名のマウンテンバイクが発売され、広戸君も早速購入してくれて、再び富士山の頂上から滑降を試み、殆どこけることなく快適に走って来れたと喜び、こんな面白い遊びは無いとみんなに話してくれました。おかげで当店ではクラブ員の間にマウンテンバイクがブ-ムになり、その後数年にわたり富士山の9合目の山小屋の社長の好意で何人も走りに行きました。

やがてマウンテンバイクはアメリカのメ-カ-が日本に上陸して、タイワンメ-カ-も交え大きな市場に発展していきました。日本のメ-カ-と言えば、前述のマディフォックスに代わって、大手のミヤタのリッジランナ-が人気を博しましたが、やがてアメリカ。台湾メ-カ-との競争に敗れ、日本のメ-カ-は駆逐されていくことになりました。